石川啄木作品

全ての作品にあふれる故郷への想い
望郷と漂白の天才詩人といわれる 石川啄木は9歳から17歳までの青春時代、 また妻節子との新婚生活を盛岡で過ごし、 盛岡が登場する秀歌を数多く詠みました。 市内には啄木ゆかりの文学碑があちらこちらにあり、 その足跡をたどることができます。

作品名 内容
あこがれ 明治38年5月に刊行された処女詩集。 後に妻となる堀合節子との恋愛の時期を反映し、 77篇の作品群は甘美なロマンティシズムに彩られています。
一握の砂 明治43年12月に刊行された551首の処女歌集。 土岐哀果の処女歌集『NAKIWARAI』に文学的刺激を受けた体裁となっています。 原稿料20円は早逝した長男の葬儀費に充てられました。
悲しき玩具 啄木の死後2か月を経た明治45年6月に刊行された第二歌集。 啄木最終期の生活を歌ったものが多く、短歌194首、歌論2篇を収録。 タイトルは「歌は私の悲しい玩具である」という一節からつけられました。
黄草集 明治38年3月~11月に書かれた詩36篇からなる詩稿ノート。 扉は啄木自ら水彩で彩色し、手作りの印も使われています。 第二歌集として刊行しようと編まれたものと思われます。
呼子と口笛 没後の大正2年5月に刊行された『啄木遺稿』に収録。 作品わずか8篇の詩集。「はてしなき議論の後」が有名。
閑天地 明治38年6月7日~7月18日、 新婚の様子などを書いた随筆『閑天地』を岩手日報に21回連載。 啄木が節子と結婚して初めて暮らしたの様子はその中の 「我が四畳半」の中に詳しく紹介されています。
葬列 文芸雑誌「明星」(明治39年12月号)に掲載された小説。 中学時代のよき散策場所だった 天満宮の丘が描かれています。
小天地 明治38年9月に発刊した文芸誌。 文学的自立を目指し、経済的な打開でもあったこの雑誌は、 与謝野鉄幹や正宗白鳥といった第一線の寄稿を得て好評でしたが、 家計の行き詰まりにより創刊号のみで廃刊。


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