女優の園井恵子(本名袴田トミ)は、大正2年岩手県松尾村に生まれました。
祖父は松尾村の初代村長をつとめた人。
後に一家は北海道に移転、彼女も小樽高等女学校に入学。
しかし2年生のとき、盛岡を訪れ、そのまま憧れの宝塚高等歌劇学校に直行します。
ところが翌年、実家が倒産してしまい、
両親は2人の妹をつれて宝塚に転居。
一家を支えながら舞台に立つ彼女は、愛くるしいひょうきんさの陰に、
強靭な精神を持っていたのでした。
宝塚では星組に所属し、昭和6年の舞台の役では、校長から「今年最大の収穫」
と絶賛されたほどの演技力を買われ、いろいろな作品に重用されました。
昭和14年には宝塚映画の『山と少女』『雪割草』の2本に出演。
これらの作品は当時盛岡でも上映されました。
彼女が女優として一躍名声を高めたのは、 昭和18年、伊丹万作脚本、稲垣浩監督の大映映画『無法松の一生』 で阪東妻三郎の相手役吉岡夫人を演じた時でした。 その凛として優雅な姿は観客をうならせ、 大映はただちに専属契約の話を持ち出しましたが、当時新劇の「苦楽座」に所属していた園井は 「折角ですが、私はまだ当分、苦楽座の人たちと舞台の修行をいたしたいと存じますから」 と断ってしまいます。 彼女の座右の銘は父の言葉「地獄の苦労を突き抜けないで極楽には行けない」でした。 稲垣監督は、次の映画の起用を考え、山本嘉次郎監督も、 彼女のための脚本を用意。 しかし、当時の芸能人は、戦争の激化とともに、隊を組んで慰問巡回公演をすることが優先され、 園井も苦楽座の移動劇団で俳優丸山定夫のひきいる「桜隊」の一員として各地を巡演していました。 そのため、それぞれが居所を探しながら連絡もできず、園井は巡演中の8月6日、広島で被爆。 当日は怪我もなく母親に手紙を書きましたが、21日に死去。まだ32歳の若さでした。 盛岡では、被爆の数ヶ月前に「桜隊」の一員として、 稽古を行っていますが、これが最後の帰郷となりました。 盛岡市北山の恩流寺墓地に眠る、若く美しいまま逝ってしまった園井恵子の姿は、 今も多くの人の胸の中に生き続け、 平成3年には、「園井恵子資料―原爆が奪った未完の大女優」が松尾村刊で出版されました。 |