プロフィール 五味清吉・ごみせいきち(1886-1954) 盛岡中卒。東京美術学校西洋画科卒。 在学中から文展連続入選。北虹会展、七光社展、北斗会展などに出品。 1932年以降帝展無鑑査。東京に住みながらも郷土の洋画壇を導く。 1942年左半身不自由となるが絵画制作を続ける。 |
五味清吉は、東京美術学校西洋画科を首席で卒業後、官展に数々の秀作を発表し、
ロマンチックな情緒と豊麗な色彩で印象派画家とうたわれました。
度々海外へ渡航し、大正9~11年、フランス留学。
滞欧中にパリのサロン・ドートンヌで入選しています。
その後も中国や朝鮮を訪れ、帰国後に度々作品展を催し、
渡航は五味の画風に様々な影響を与えたようです。
中央での活躍の一方で、郷里の盛岡で明治43年、岩手県初の洋画団体「北虹会(ほっこうかい)」を結成。 東京に住みながらも、展覧会の開催や出品など、盛岡にはしょっちゅう足を運び、 岩手の洋画会の発展に大きく貢献しました。 そんな中で大正10年、盛岡在住の洋画家達による展覧会で、五味の出品作のうち「裸婦」が「風紀を乱す」 ことを理由に警察に撤去を命じられたというエピソードが残っています。 上品で美しい裸婦像は五味が得意としていたものですが、 ともかくこれが岩手では初の作品撤去と伝えられています 五味は自ら積極的に組織づくりに取り組むということはありませんでしたが、 温和な人柄で画家仲間から敬愛され、団体に重みを加える欠かせない人物でした。 五味は、脂の乗り切っていた昭和17年、56歳の時に突然脳溢血に見舞われ、 左半身が不自由になってしまいます。幸いにも右手は動かすことができたため、 病床で制作を続けました。 その時期に、それまでの印象派風の穏健な画風とは全く異なる鬼気迫るような自画像がのこされています。 それは、画風そのままの人柄で知られた画家五味清吉の、 秘められた芸術に対する執念だったのかもしれません。 その後昭和19年に東京のアトリエを処分して盛岡に疎開、 昭和29年に68歳で郷里で死去。 岩手の洋画を導いた功績を称えようと、知人達の希望で初の美術葬が営まれ、 絶筆や自画像、画材などが祭壇に供えられる中、参列者が白い花をささげました。 |